オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

たどたどしい表現の後ろに広がる世界――フンデルトワッサー、乳幼児の発声

本を読むのは確かに好きだけど、多読家というには程遠くて、一冊読むのに結構な時間がかかるオランウータン日誌です、こんにちは。


昨日、高山なおみのエッセイから「老人の体に棲みついて離れない記憶というものがあるのを見た気がした」というフレーズをひいたそのすぐ後に、また印象的なエピソードがあって、考え込む。どれだけ時間のかかる読書なんだ。



高山が観に行った「フンデルトワッサーの世界展」で、彼のインタビュー映像が流されている。完成した絵に残っている、自由に、楽しそうに描かれた跡に心惹かれつつ、このインタビューを見て、彼の世界観が高山の中で一致する。

フンデルトワッサーは、時々どもる。
ところどころ言葉が詰まりながら話す話し方は、英語なのになんだかとってもわかりやすかった。間に挟まるナレーションの人の英語は、なめらかすぎて私にはまったくわからない。彼は、とても伝えたいことがあって話しているという感じがした。


この画家の魅力が伝わる素敵な文章だと思った。

強い思いから発される声


思いが強すぎるゆえに、うまく言葉にならない、ということがある。


たとえば、僕は赤ちゃんの発するあーとかうーとかいう発声、いわゆる喃語をきいて、赤ちゃんとおしゃべりのようなことをするのが好きだ。


赤ちゃんは、大人が想像するよりもずっと多くのことを感じていると言われているが、言葉も獲得していないし、口や舌の身体的な発達も追いついていないので、当然、意味のある発声はかなわない。


だが、赤ちゃんなりに、自分の思いを伝えたい、感じたことを身近な大人に分かってもらいたい、という思いはあって、その「伝えたい」という思いが喃語となって口をつく。


「伝えたい」という純粋な思いから発せられた言葉は確かにこちらに届いてきて、意味をなす言葉とならなくても、通じ合うことができうる。


ある程度言葉を獲得した幼児期には「吃音」、高山の言葉でいうと「どもり」が見られることがある。


これが原因で、とはっきりしたことをいうことはもちろんできないけど、幼児の吃音は、感じていること、考えていることが、子どもの持っている言葉では表現しきれないと感じているゆえに、なめらかに言葉とならないゆえ、ともいわれている。

言葉だけにおさまらない豊かな世界


うまい表現で、分かりやすく論理だった説明で、上手に何かを表現できる能力は、確かに大切で、っていうか社会に出るとそういう力ばかりが求められるとすら言えると思うんだけど、言葉だけにおさまらない世界にも、僕は寄り添いたいと思ってる。


なめらかな言葉でこの現実にフィットする言葉は、もしかしたら、ただただ私たちの上を上滑りしていってしまうかもしれない。


どもりながら話す画家のように、あるいは、伝えたいという思いだけが先走る赤ちゃんや幼児のように、言葉にはうまくおさまりきらなくっても、豊かな世界が、たどたどしい表現の後ろには広がっているかもしれないのだ。


以上、オランウータン日誌がお届けしました。

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