オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

「何もかも全部憶えてる」という記憶、あるいは願い――高山なおみ、山田稔明、夏石鈴子をめぐって

たまにブックオフに行くとふだん読まないような本まで買ってきてしまうオランウータン日誌です、こんにちは。


そんなわけで、高山なおみ『帰ってから、お腹が空いてもいいようにと思ったのだ。』というエッセイを読んでる。




まだごく初めの方しか読んでいないんだけど、印象的なエピソードが紹介されている。


93歳の認知症の作家は、もう小説の言葉を書くことなどできないのだが、まいにち机に向かう。


あるとき、娘がのぞいてみると、作家は、繰り返し自分の名前を原稿用紙につづっていたのだという。


お正月には、昔、まだみんなが息災だったころに作家の妻が作ってくれていた「肉団子のもち米蒸し」を再現して食べさせる。すると、その時だけ、作家の、心ここにあらずのいつもの表情が消える。「うまい」と一心に食べる。だが、たまに会いに来たとしても、その料理をかつて作ってくれていた妻の顔は分からない……。


高山はこのエピソードについて言う。

老人の体に棲みついて離れない記憶というものがあるのを見た気がした。

「何もかも全部憶えてる」という記憶、あるいは願い


この秋に行ったライブで、山田稔明の「些細なことのように」という曲を聴いてから、僕たちの記憶のあり方について考えてる。


愛猫との別れを経て思い入れが深くなって、実感を伴って歌えるようになった、というような意味あいのことをMCで話していた。


正確な歌詞が分からないんだけれども、今はもう、自分のもとにはいないものに向けての思いが歌われる。


「パンにバターを塗るように
 フライパンにオイルをひくように
 些細なことのように思っているよ」


大切に思うことと、些細なことのように思うことは確かに両立して、当たり前のように大事に相手を思いやる気持ち、なんて陳腐な言い方しかできなく嫌なんだけど、そんな思いが伝わってくる素敵な曲だった。


曲の後半、メロディーも気分も盛り上がってきたところで、「壁のポストカード」も、「何もかもずっと憶えてる」というようなことが歌われる。


「些細なこと」と言ってるのに、壁のポストカードまで含めて「何もかもずっと憶えてる」というのは矛盾してるんじゃないか、と思いつつ、その矛盾を超えて、胸に迫る実感があって、泣きそうになる。


食べたものが僕の体を作っていくように、僕が生活していく中で考えたことや感じたことも、何もかも全部、僕の細胞となって、僕を形作っている。今日食べたごはんも、壁のポストカードも、写真で写したようにすべてを憶えていることはできなくても、たしかに僕の一部となって、「なにもかもずっと憶えてる」ことはできるんじゃないか。大切なものと過ごす時間は、そんな風にして、――あるいはそうあって欲しいという願いでしかないのかもしれないけど、確かに記憶されていくのだ。


以上、オランウータン日誌がお届けしました。


ずっと一緒にいるということは、相手の体の記憶が、自分の体に移り住むということだ。体のことだけじゃない。一緒に過ごしてきた時間が、層を成して、お互いの成分になることだ。(中略)写真などには残らない、ささいな瞬間が、私の成分になっていく。そんな小さなことどもを忘れたくないと思う。(夏石鈴子)

the loved one

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愛情日誌 (角川文庫)

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