オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

【レビュー】長嶋有『ねたあとに』――ただ「遊ぶ」ことができる相手のいる輝き

安定の無為な生活は希望です! 妻が出かけると途端にすることがなくなって、ひたすら無駄に時間をやり過ごすオランウータン日誌です、こんにちは。昨日はまさにそうで、本なんか読みつつ、怠惰な休日を過ごしていました。


はたから見ると無駄でくだらないとしか思えないことでも、やってる当人にはかけがえのないかもしれないことはあって、自作の遊びに興じる大人たちを描いた小説『ねたあとに』はまさにそんな感じ。


ねたあとに (朝日文庫)

ねたあとに (朝日文庫)


季節は真夏。


避暑地の山荘に集まる男女。


素敵なことが起こる舞台はととのった……はずなのに、恋にも陥らなければ事件に巻き込まれるわけでもなく、彼らはただただ、無意味な遊びに興じるばかりだ。


けっこう長い小説なのに、本当に終始いい大人がさまざまな自作の遊びをやるだけなんだけど、その遊びが楽しそうなことや、そんな風にして、何も生み出さずに楽しく遊べる友だちがいることのかけがえのなさが浮かび上がってきて、独特の味わい深さがある小説だ。

誰かに与えられるイメージを拒む


山荘での遊びの一つに「ムシバム」というのがある。


遊び、というか、山荘のなかにいた虫を写真に撮ってブログにアップする、というだけで、「虫」の「アルバム」で「ムシバム」。


別にきれいな虫を上手に撮影するわけでもないこの「ムシバム」の意味を、山荘に遊びに来た久呂子さんは言う。


「ムシバム」は、本当はこの家を撮っているのである。家というよりは、単なる「景色」を。景色から意味を――それは「素敵な」とか「淡々とした」、または「過酷な」とか、ありとあらゆる意味を――抜き取って景色だけ(原文「だけ」に傍点)を、保存したいのだ。虫は、意味を抜き取るための「方便」だ。


真夏の山荘でのんびり過ごす……なんだか素敵? ロハススローライフ


実際はおんぼろの山小屋で、素敵でも環境に優しくもなくだらだら遊ぶだけなのに、彼らの夏の生活は何かしらの意味を貼られる可能性を常にはらんでいる。


誰かに与えられる意味やイメージを拒んで、あらゆる意味をはぎ取られた「場の記録」、「生活の記録」となるように、「ムシバム」と同様、様々「遊び」を「方便」として『ねたあとに』は書かれているんじゃないか。

「遊び」を通して浮かび上がる「その人」性


「顔」というゲームでは、「どこで・誰が・何を」ゲームの要領で、プレーヤーの「心の恋人」を、「巻物」に書かれた各構成要素にしたがってさいころで決めていく。


「心の恋人」を決める要素は、まず初めに「姓」、次に「名」、そして三番目に「生まれ」つまり出身地が決められるのだが、この順番こそが「顔」という遊びの見どころであるのだと山荘の所有者、作家のコモローは言う。


この遊びは、事情あって祖父母と暮らしていたコモローの弟によるものなのだが、祖父母と暮らしていたからこそ、姓名の次に来るのが年齢でも趣味でも性格でもなく、「生まれ」になっているのだと。

「それが誰のことであっても、名前を知ったら、次に尋ねるのは『どこのもんだ?』っていうのがもう、あの年代の人たちだからさ」
(中略)
完全に爺さん婆さん世代の「興味」だ。コモローはこれを「興信所的順番」と名づけた。ヒキオ少年に対する、本人も気付いていない祖父母の「影響」が、巻物に痕跡になって残っている。私もずっと遊んでいたのに、その順番の異様さに気付かなかった。個性って、言葉やふるまいだけで発揮されるわけではないのだ!


この遊びの作者のヒキオってどんな人だ? この小説に出てくるのはどんな性格の持ち主だ?


『ねたあとに』を読み終えても、僕は的確に答えることができない。


どの登場人物も、素敵でも、ひどくも、ましてや普通でもない。それぞれの仕方で個性を発揮しながら、それ以上でもそれ以下でもなく遊んでいるのだ。

「遊び」はセンスを問われる


「遊び」は何か共通の目的に向かっておこなうわけではなく、楽しい時間を過ごすだけだ。


けど、目的もなく楽しく同じ時間を過ごす、というのは実はその場にいるもの同士の信頼関係ができていないと、けっこう難しい。

「なんか今のゲーム、すごく緊張した」しませんでしたか? え、どうだったろう。エミさんにみられて、目を泳がせる。(中略)
「だって、なんか、自分のセンスを試されている感じがして」

ものすごくドキドキする。そんな苦しいダジャレを人前で発声することに。自分で課した重大なタブーを自ら犯す感じ。


遊びをしていない時間にも、山荘に来た人々はひっきりなしに小ネタを繰り出していて、時に内輪ネタとしても成立していない。大うけしたり、受け流したり、時には無視したり……。合目的に過ごしているわけではないので、どんな反応をするのも自由だ。けど、なんとなく互いに受け容れあっている様子。


霊長類学者の山極寿一が、霊長類の遊びについて考察していたのを思い出す。

遊びは経済的な目的のない行動なので、唯一考えられる目的としては楽しさを共有することだけである。遊びによって両者がきずなを高める可能性もあるが、それが目的となって遊びが起こるわけではない。
(中略)
遊びによって人間は利害の鎖でがんじがらめになっている現実を一瞬解き放ち、新たな可能性を考える機会を持つことを覚えたのである。遊びは人間の美的感覚を支え、道徳や倫理の底流となっているのである。


一緒にご飯を食べるのでも、飲みに行くのでもなく、ただ何かをして「遊ぶ」なんていうのは、大人になった今では、どの友だちとでもできるわけではない。


一緒に「遊べる」友だちが、だからといって親友だとか分かり合えてるだとかいうつもりはないのだけれど、それでも、自分をさらけ出しても受け容れてくれる相手がいて、楽しい時間を過ごすことができるのは、かけがえがない輝きを放ちうる。


以上、オランウータン日誌がお届けしました。


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ねたあとに (朝日文庫)

ねたあとに (朝日文庫)