オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

佐々木、イン、マイマイン

「佐々木、イン、マイマイン」を観る。超いい映画……!


sasaki-in-my-mind.com


ラストシーンが、狂気としか言いようがないんだけど、とても説得力をもって迫ってくる!
死は決して終わりではないし、意味がないものでもない。生の記憶や気配は、死ののちも、誰かの生を照らしうるし、背中を押すことができる。


エンドロールでの、佐々木と苗村さんのカラオケでのやりとりも泣ける。


悠二たちにとって佐々木はかけがえのない存在ではあったものの、佐々木自身は、苗村さんに受け入れられることでとても救われているように見える。佐々木が受け入れられたということは、悠二たちにとっての救いにもなっている。
そうして、佐々木が受け入れられていく様は、現実的に考えるとかなりヤバい言動なのだけど、それを成立させる二人の間合いとか、波長とかが感じられて、神聖ですらある。(たとえ佐々木が誰にも受け入れられないまま終わっていったとしても、佐々木という存在のかけがえのなさが損なわれるわけではないが、残された者たちには苦い思いが色濃くなりそう)


ある時期を共に過ごした者同士が離れていってしまうのは切ないものだけど、もしかしたら、青春とよばれるようなものと訣別したあとにこそ、人生の本番が待っているのかもしれない。悠二たちが、高校時代の楽しさの残滓を確かめあうような関係性を続けていたら、佐々木の最後への受け止めかたもかなり違ったものになっていただろう。楽しかった時間のあとにも残る、純度の高い思いこそが、人の背を押し、前に進ませる原動力になりうる。同じ時間、同じ場所を共有したかけがえのなさを胸に、一人ひとりがそれぞれの場所で、自分をさらけ出しながら踊り続けるしかないのだ。さみしくはあるかもしれないけど、それは決して不幸なことではない、そんな風に感じさせられた。


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僕が見た会には、内山拓也監督のオンライントークが本編のあとにあって、Twitterで事前に募集した質問に答えていた。


上に書いた、佐々木と苗村さんのやりとりの場面や、佐々木の家の前に一同が会するシーンについての話が印象的で、それらのシーンを、僕は割と違和感なく観ていたのだけど、違和感なく観られる、というそのこと自体が、作り手の細心の注意によってなされるものであるということが伝わってきた。僕は映画について詳しくないのだけど、やっぱり作るの大変なんだろうなぁ(当たり前)。