オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

ヒトにとって欲望とは? 保育士の考察

欲望の自然性

欲望はヒトが生きていくうえで必須の物であるが、無条件に肯定されるものでもなければ、むやみに否定されるようなものでもない。

欲望は根源的には生きていきたいという原動力であるし、生きる上で必要な衣食住を整えようとする力や、人とのつながりを求める心を形作っている。また、物質的な物に限定されず、よく生きたい、という倫理の源でもある。そのような欲望の働きのどれもが、自然なものであり、当然あるものであり、それゆえに、否定も肯定もせずにフラットに受け入れて付き合っていくしかないものである。

欲望を否定する態度

自然発生的な欲望を否定する態度は、ヒトの幸せを損なう。

「やりたい」、「やりたくない」を口に出せず、社会が求める「よい」という基準に過剰適応しようとすることは、非定形うつ病を始めとした精神疾患にもつながっていく。また、求められる役割に過剰適応することは、自分はどうせ○○だから、といったように、個人の主体性を奪うことにもなる。自然に欲望する自分を否定することは、個人としても、社会全体としても、閉塞感を増して苦しくなっていく。

欲望を無条件に肯定する態度

とはいえ、現代社会の、欲望を無条件に肯定することによる弊害はますます顕在化している。欲望の追求のみに走った結果が、自助と競争を強調して人と人とのつながりを分断した新自由主義的社会であり、消費しないと自己実現できないというディストピアであり、他の生命と共存できない際限のない開発なのである。

欲望と上手に付き合う

僕は、基本的に自由を愛しているし、それぞれがもっと自由に自分の欲望を追求できる社会になればいいと思っている。一人ひとりの欲望のカタチは異なっており、その欲望のカタチの違いこそが個性と呼ばれるもので、その人ならではの欲望のカタチにふれたときにその相手のことをいとおしく思う。*1

時にエキセントリックなカタチの欲望を持つものがあるかもしれないが、その違いをも笑って受け容れられるような(時にはいさめられるような)人と人とのつながりが作れるといいと思う。エキセントリックを何となく笑って受け容れられる社会にあっては、排除するでもなく、野放しにするでもなく、いい塩梅でみんなが共生できるのではないか。

問題は、欲しくもないものを欲望させられている現状である。消費しなければ自己実現ができないと思いこませようと、社会はあらゆる手を使って我々を欲望させようとする。僕は、保育士として働く中でヒトという種が本来持っている能力には楽観的に信頼を寄せるようになった。赤ちゃんは自分に必要なものをわきまえて欲望するし、他者とのつながろうとする力も備えている。そのような、ヒトとしての本来の欲望を発揮できれば、他者との共生や自然との調和をもった生き方ができるのではないか。

欲望は規制されたり、制限されたりするのではなく、それぞれが一人ひとりに固有の欲望を追求しつつ、それぞれの欲望を尊重して調和できるようなありかたを模索する必要がある。もしかしたら、そのような欲望の持ち方ができることを「知性」と呼ぶことが出来るのかもしれない。


星野源 – くせのうた (Official Video)

*1:AV監督の二村ヒトシは『なぜあなたは愛してくれない人を好きになってしまうのか』において、親から育てられるなかで否応なく傷つけられることによって生じるものを「心の穴」と論じ、この心の穴からその人固有の欲望が湧いてくるとしている