女は愛嬌という「処世術」
雨が降りそうな空模様なので自転車での通勤ができず、持て余し気味のオランウータン日誌です、こんにちは。
持て余してるので、過去に書いた文章を見ていたら、今とあまり考えてることは変わっていないことに気付く。
この文章を書いたのは、もう3年前だ。
「女は愛嬌」というのは処世術としては優れている。
なぜなら愛嬌のある女はかわいいからだ(言うまでもないか)。へらへらメロメロ。
だが「女は愛嬌」が単なる処世術としてではなく、その女の人間関係の内的なモデルになったとき、その女はメンヘラにならざるを得ないのではないか。
愛嬌をふりまいてかわいがられたところで、他人はその女のことをしあわせにすることはできない。他者の行為(好意)は一時的にはその女の気持ちを埋めるかもしれないが、自己が安定しない限り、他者への欲求は肥大する一方で満たされることはないのである。愛嬌をふりまくことによって作られた、他者との関係性のみに根ざした不安定な自己ではなく、自分の行為、したこと、がんばったことに基づいて「だいじょうぶ感」、安定した自己を育てること。自分をしあわせにできるのは、男であれ女であれ自分だけなのである。
こんな風にして自分を振り返ることができるので、もっと思ったこと、感じたことは自由に書きとめていきたい。
以上、オランウータン日誌がお届けしました。