オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

「保育サービス」の充実は子どもの育ちを支えるのか

「保育サービス」という言葉を聞いて何を思い浮かべますか?


これは保育士の就職をはじめとした各種試験においてよく問われることである。


「何を思い浮かべますか」という聞き方自体おかしくて、つい「ちょうちょが飛んでるお花畑を思い浮かべます」とか答えたくなってしまうのだが、それはさておき。


「保育サービス」についての問いは、「子どもの最善の利益を追求する」という保育士の立場からすると、社会の流れに迎合することができるのか、組織の論理に従うことができる人間なのかを試す、ある種の踏み絵として機能しているように思う。



まず区別しなければならない。


「保育」とは子どもを保護、育成して、乳幼児期における人間性の基礎を作る営みである。預かった子どもを対象に「サービス」することでは決してありえない。


それに対して「保育サービス」とは、端的に言って、保護者の生活を支えるために「子どもを預かる」ということを「サービス」として保育所が提供することである。


言葉遊びめいてしまうのがもどかしいのだが、「保育サービス」の具体例を挙げれば分かりやすい。


たとえば、朝7時から夜の9時まで子どもを預かるといった延長保育。日曜祝日も子どもを預かる休日保育。病み上がりで、まだ健康な子どもたちと一緒の生活を送るだけの体力がない子どものための病後時保育。これらが代表的な「保育サービス」として挙げられるだろう。


一見して、「保育サービス」が子どもの健全な育ちのためのもの、というより、保護者が自分の生活スタイルを子どもがいることによって崩されないためのもの、保護者が子どもに左右されずに働くことのできるためのものであることは容易に想像がつくだろう。


もちろん、保育所の理念として、保護者の多様なニーズを満たし、保護者自身の自己実現を支えることは重要である。保護者の生活が充実しており、幸せを感じていることは、結果として幸せな家庭環境で子どもが健やかに育つことにもつながる。本当に必要としている家庭のために、「保育サービス」は充実させなければならないだろう。


だが、と思う。


子どもに左右されない保護者の自己実現とは何なのか。逆に言うと、子どもは保護者の自己実現の足かせでしかないのか。


子どもの立場に立ってみても、さまざまな疑問がわいてくる。生活の大半を保育所で過ごして、家庭には寝るためだけに帰るという生活が子どもの心身への負担にならないはずがない。働く親が休日も子どもを預けたら、いつ親子のふれあいの時間があるのか。病み上がりの子どもが、いくらゆったり過ごすとはいえ、ふだんとは違った環境の中で過ごすのが、本当に子どものためと言えるのだろうか。


子どもを預かる以上、その子どもが保育所で快適に、安心して、よりよい育ちができるように保育者が関わるのは言うまでもない。が、どんなに保育者が子どものためになる関わり方をしようと、どんなにその子に適した環境を整えようと、それが家庭での生活を完全に埋め合わせるものではない。


もし、万が一、仮に「保育サービス」が子どもの生活のすべてを家庭に代わって支えられるようになったとしたら、今度は「じゃあ家庭って何?家族って何のためにあるの?」ということを考えざるをえなくなるのではないだろうか。


私は保育者として子どもの育ちを全力で支えたいと思う。だが、保育者が一生懸命働いて「保育サービス」を充実させたところで、それが本当に子どもの育ちを支えることになるのだろうか。そこに、私たち保育者のジレンマがある。



「保育サービス」という言葉を聞いて何を思い浮かべますか?


こう問われて、私は口ごもらざるをえない。だが、それで構わないのではないかと思っている。


この問いに「保護者の方が気持ちよく子どもを預けて、充実した生活を実現できるようにするためのものです」と満面の笑みで答えられるようになる時が来るとしたら、それは私が保育者であることをやめた時だろう。