オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

よりよい生につながる言葉をはぐくむ

私たちは「言葉の力」とか「言葉の重要性」といった口当たりのいいキャッチフレーズを安易に信じてしまいがちである。


だが、そもそも言葉とは人間にとってどのようなものであるのか、ということを考えずにそれらを盲信するのはあまりに皮相的である。そのような無自覚さは、言葉を機械的に学習される単なる知識、いわば「お受験」的なものとして捉えるような浅はかさとどこか響き合う。


言葉はどのように獲得され、どんな性質を持つのか。その本質をとらえた上ではじめて「言葉の力」、「言葉の重要性」が浮かび上がり、子どものよりよい生に貢献する言葉の発達を支えることができるのではないだろうか。


岡本夏木『子どもとことば』は、子どもが言葉を獲得していく過程を丁寧に追って、かつ獲得された言葉がどのように発達に関わってくるのかということにも言及しており、言葉の性質を考える方向性を示してくれる。


岡本は子どもが言葉を獲得していく過程を、子どもの周囲の環境、とりわけ人間関係のなかから学びとると論じる。しかも、「そうした環境を、ただ外から与えられたもの、外的刺激の機械的影響としてうけとめるのではなく、子ども自身が自分の能動的な活動をとおして、自分のものとしてゆく」のだという。


これはどういうことだろうか。私と1歳児とのボール遊びでの場面を例に考えてみたい。


私が地面にボールを投げつけて、子どもはバウンドしたボールを追いかける。追いかけながら、目でボールを追うのはもちろん、腕を左右に広げて上下させながら、首をふって、膝を使って、ボールのバウンドに合わせて体全体を動かしている。私はボールの動きに合わせてボーンボンと声をかける。数日間この遊びを繰り返した後には、子どもはボールのことを「ボンボン」と呼ぶようになった。


あまりに原始的な例かもしれないが、子どもが言葉を単なる知識としてではなく、知覚と運動すべてを通して「ボンボン」という響きを吸収していることが分かるだろう。岡本は「ことばの発達」というよりも、むしろ「発達のなかのことば」とか「ことばと発達」という方がふさわしいと端的に指摘している。言葉は他の発達から独立して、単なる知識として獲得されるようなものではないのだ。


そして、言葉の発達が他の発達から独立したものではないということは、言葉が自我や発達そのものに影響を与えるという意味においても忘れてはならない。岡本は続ける。


そして、ことばが組織的に獲得されてくると(中略)それは生活を言語化し、人びととの交わり方を変え、自分の行動をコントロールし、自我感情を客観化し概念や知識の形成に参加してくる。つまり、ことばは発達のなかから生まれ、さらにその発達そのものを大きく変えていく。


「言葉の力」、「言葉の重要性」は岡本が指摘する意味においてこそ浮かび上がって来る。言葉は自分の身体、知覚のすべてで周囲の環境から獲得されるものであり、その意味では世界との向き合い方そのものと言っていい。そして言葉は、自分の生きる世界を整理し、世界のなかでの自分とは何かを理解し、よりよい自分であろうとする力を与えるものなのだ。


とすると私たち子どもと関わる大人がしなければならないことは明らかなのではないだろうか。


それは、子どもが周りの環境と充分に関わって、その経験を自分のなかに言葉として取りこむことのできるような機会を保障することである。頭だけで覚えたものではない、文字どおりの意味で「身につけた」言葉は、よりよく生きる力に確かにつながっているのだ。


子どもとことば (岩波新書)

子どもとことば (岩波新書)