オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

さわる、さわられる、気持ちいい

人にさわったり、さわられたりするのって気持ちいい。


誰かと手をつなぐとき、髪をなでるとき、頬にふれるとき、私たちはふれる/ふれられることによって、互いに快を感じている。体調が悪いとき、不調を来している患部にそっと手を置いてもらうことによって、その痛みがやわらぐことがある(ケガや病気への処置はまさしく「手当て」と呼ばれる)。あるいは、何か大きな失敗をして気分が落ち込んでいるとき、手をふれることのできる他者がいることによって(手をさしのべてくれる他者がいることによって)、絶望の淵に陥らずに、今ここにある現実にとどまることができる。ふれる/ふれられるとは、互いが互いの存在を受け容れ認めあう原初的な行為なのだ。


親密な関係のうえに立っていれば、互いの存在の輪郭を明確にし快感を生む身体接触も、当然のことながら、他者が理由もなく自分の体にさわってきたら不快である。その場合のふれる/ふれられるとは、他者の存在が肥大化して〈私〉に侵食してくるような、〈私〉の存在を脅かす行為である。


ふれる/ふれられることが、快にも不快にも転じるという性質は、子どもにおいてはより顕著に表れてくる。


「むやみにふれる」を「ふれあい」に変える


子どもは、「むやみに人の体にふれてはいけない」という規範があいまいで、朝、保育園に来て私に会うなり頬にふれてきたりする。


さわる相手が大人なら「かわいい!」とか言われてチヤホヤしてもらえるのだが、ほかの子どもにさわったときは危険だ。たいていの場合、さわられた子どもは嫌な顔をする。子どもによっては「キーッ!」と叫んで、さわった相手をひっかいたり押し倒したりする。こう書いてみるとまるで動物のことについて話している気分にもなってくるのだが、もしかしたら子どもにとっては、他の子どもにいきなりさわられるということは、〈私〉の存在を脅かされるような、まさに動物的な恐怖なのかもしれない。ここでの自分にふれてくる相手は「友だち」として認識されているのではなく、自分に危害を加える他者、極端な言い方をするならば「外敵」として捉えられているようにすら見える。


ともあれ、子どもがおはようのあいさつもそこそこに私の頬をぺちぺちやったりしたなら、かわいいし楽しいので、私もその子どもの頬をつっついたりしながら、「○○ちゃんのほっぺ冷たい!」とか「先生の手はあったかいだろう」とか声をかける。すると子どもはぺちぺちの手を強めたり、温度を比べるために私の頬にふれたり、手を握ったりしてきて、じゃれあいが盛り上がるのだが、盛り上がって来ると、また別の子どもがやってくる。


別の子どもがじゃれあいを興味を持って眺めにきたら、私はすかさず「○○ちゃんのほっぺが冷たいんだ、さわってみたら気持ちいいよ」とか「君の手とどっちが冷たいかさわらせてもらったら」などと声をかけて、子ども同士でもふれあって遊べるように促す。はじめ、ふれる方もふれられる方も恐る恐るなのだが、ちょっとさわって見ると、冷たいほっぺに温かい手の感触はお互いに気持ち良くて、きゃーきゃー声を上げながら、だんだんとくすぐりあいになったりして、じゃれあいは祝祭めいた盛り上がりを見せる。超楽しい。


ふれる/ふれられることは発達に必要な経験


じゃれあいは大人にも子どもにも楽しくて、しかも、ふれる/ふれられるということは子どもにとって必要な経験だと私は思っている。


子どもが〈私〉を意識するためには、つまり、意思ある〈私〉として主体的に生きて行くための基礎を作るためには、ふれる/ふれられることを通して、〈私〉と他者との境界を意識する経験が必要である。しかもその経験は、他者と〈私〉との差異を浮かび上がらせるだけではなく、異なっていることを前提としつつ、同じ何かを感じ合えるような、〈私〉と「あなた」が交りあえる形で〈私〉を意識させるような、そんな種類の経験が求められるのではないだろうか。哲学者の鷲田清一は言っている。

 母を頬や唇で感じ、その乳首をいらい、父を背や腿の裏で感じ、その脛の毛をつまみ、友だちを腕の外側で感じ、その頸にぶら下がり、手をつなぎ……。
 (中略)そのからだの記憶。それはごはんを作ってもらった経験とともに、なにか大げさにではなく、「存在の世話」をしてもらうというところがある。他人に何かをしてもらうという経験のコアとでもいうべき経験だ。


子どもは、ふれる/ふれられる経験、鷲田の言葉でいうなら「体を内側から感知しあう、さりげない瞬間」の積み重ねによって、自分は愛されているという実感や他者に対する信頼感を持てるようになる。じゃれあうことが必要な経験であるという理由はここにある。いきなりさわられたら「外敵」としか認識されない子ども同士が、保育者の仲立ちによって、互いの頬にふれたり、つついたり、くすぐりあったりするなかで、互いに「体を内側から感知しあう」。それはいわば、子どもが他の子どもを初めて「友だち」として受け容れあう幸せな出会いなのだ。


さわったり、さわられたりするのって気持ちいいんだぜ、そんな気持ちいいことを一緒にできるんだから、友だちって結構いいもんなんだよ、そんな思いが私の意識の根底にはあるわけだけど、そんなごちゃごちゃした理屈は実際に子どもとじゃれあっているときにはどうでもよくて、「楽しい!」が子どもたちに伝わることこそが大切なのだ。友だちとの「楽しい!」と感じる経験を通してこそ、子どもは、他者を信頼して、他者とともに生きて行こうとする意思を持てるようになるのだと思う。


ここからは蛇足なんだけど、人間の発達が、乳幼児期の状態から脱皮して、それまでと全く違った大人になるというような種類のものではなく、子ども時代の延長に大人の生がある以上、ふれあいやじゃれあいは、私たち大人にも楽しいものであるはずだ。なので私も、できれば子どもとも仕事とも関係のない所で、妙齢の女性とくすぐりあって笑い転げるような楽しいじゃれあいをしたいなぁ、と思います。


ああ人肌恋しい!


じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」)

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