オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

ほのぼのエピソード(寝起き、かくれんぼ編)から考える自意識の発達


たまには保育園の先生らしく、子どものほのぼのエピソードを書こうと思う。


「せんせぇ見て見て……」


私の勤めている保育園ではお昼を食べたあと、1歳児クラスの子どもたち(年度末の時期では半数以上の子どもが2歳になっている)はおやつまでの2~3時間お昼寝をする。


その時間を、職員は保護者への連絡帳を書いたり、書類を作ったり、保育で使うものの準備をしたりして使う。


その日、私は寝ているB君の近くで書類を書いていた。


そろそろ3時。何人かの子どもがぽつぽつ起き出すころだ。


――と、「せんせぇ見て見てー」と私を呼ぶ声がする。B君だ。B君も目が覚めたらしい。


私がB君の方を見て「なあに?B君」と尋ねると、B君はにこにこしながら答えた。


「見て見てせんせぇ、ボクもうおきてるよー」


うん、知ってる。だって、君が先生のことを呼んだんじゃないか。起きてなきゃ呼べないよ。それに、こうして目と目をあわせて話してるじゃないか。


「起きたんだね。おはよう、B君」


可笑しいなぁ、と思いながらもそう答えると、B君、ご機嫌。目覚めたら私が近くにいたので、起きたことを知らせたくなったのかな。なんてかわいいんだ、B君!


「Wちゃんいないよ~」


また別の日の話。


Wちゃんが「かくれんぼ」をしたいと熱烈にリクエストしてくるので、2歳になったばかりの君たちにかくれんぼみたいなルールのある遊びは難しいよなぁと思いつつ、まぁやってみた。


案の定、ふつう想像するような「かくれんぼ」としては成立しなくって、私がずっと鬼、しかも「いーち、にーい……」と数えている間に隠れる、ということすら分かっていない子どももいて、「もういーかい」「もういーよ」のあとに、私が分かってない子どもたちを段ボール箱の中とか棚の陰につれて行って隠れさせたうえで、「○○くん、どこ~?」みたいなことをやるのである。


要するにルールなんてあってないようなものなのだが、それでも2歳前後の子どもたちには楽しい。「いーち、にーい」という数唱自体のリズム、「もういーかい」、「まーだだよ」のやりとりなど、楽しい理由をケーススタディとして追求すれば本当にたくさんのことが考えられるのだが、それはさておき。


「Wちゃん、どこ~?Wちゃん、いる~?」


と私が問いかける。すると、段ボール箱の中にうずくまったままでWちゃんは答える。


「Wちゃんいないよ~」


そうか、Wちゃんいないのか。Wちゃんの声でいないよって答えてるんだけど。もう一度聞いてみる。


「Wちゃんいないの?」


「うん、Wちゃんいないよ~」


Wちゃん、かたくなだなぁ。ツンツンと背中をつついてWちゃんにこっちを向かせて、「Wちゃん、みーつけた」と声をかけると、「見つかっちゃったぁ」とヘラヘラ笑う。


全員が見つかった後は、「もっかい!もっかい!」という声が挙がって、また同じようなやりとりが繰り返される。そんなこんなで、2歳前後の子どもでもかくれんぼは楽しめるわけだ。


「他人には自分がどう見えるか」という自意識


今回の二つのエピソードから分かることは、子どもは2歳前後の時点ではまだ、「他人には自分がどう見えるか」という自意識を持っていないということである。言いかえるならそれは、「相手の立場になって考えることができない」ということを意味している。その自己中心性が「いい」とか「悪い」とかいうことではなくて、発達段階としてそうであるというだけのことだ。


そのような「自意識のない」状態から、成長とともにゆっくりと抜け出していくことになるのだが、その過程においては、ふだんの生活での他者との関わりや遊びが不可欠である。


目が覚めたことを知らせようと「見て見て」と声をかけたその時には、すでに相手は「起きている自分」と目を合わせているという経験を積み重ねること。かくれんぼという、他者の視線を意識することなしにはできない遊びを楽しむこと。子どもは普段の生活や遊びの中で、身をもって「他者には自分がどう見えるのか」、「相手の立場から見た自分」を意識するようになるのだ。


子どもにとっては遊びや生活のすべてが学び


子どもはふだんの生活や遊びのすべてから、言葉では言い表せないほど多くのことを学びとっている。今回、私は子どもの寝起きとかくれんぼの時の姿から自意識について考えてみたが、それは自意識のみにとどまる問題ではない。相手を思いやる気持ち、人間関係の条件であるし、自分の考えに第三者の視点を持ち込むことは抽象的思考、言語発達にもつながっている。


子どもとの会話や遊びはくだらないものではないし、無駄でもない。私たちが子どもをまなざす視線が、あるいは子どもと一緒に遊ぶ姿が、子ども自らの育つ力を助ける。子どもの遊びと生活すべてを学びの機会ととらえて、子どもがたくさんのことを感じられるように、子どもに寄り添って、真剣に関わっていかなければならないと思う。