オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

3つの「夏服を着た女たち」――目の前にある身体と声の力

オランウータン日誌です、こんにちは。


昨日は代田橋のCHUBBYというカフェに、激情コミュニティという劇団の舞台「夏服を着た女たち」を観に行ってきた。原作はアーウィン・ショーの短編小説。


geki-comi.com


夏服を着た女たち (講談社文庫)

夏服を着た女たち (講談社文庫)

あらすじ


晴れた日曜日の朝、ニューヨークを歩く若い夫婦。


若くして掃いて捨てるほどの金を持つ夫と、美人の妻。


文句のつけようのない、完璧な日曜日の朝――のはずが、漂う不穏な空気。


――よそ見しちゃダメ。


すれ違う女たちを、ブスではない限りじっと目で追う夫に妻は言う。

3つの「夏服を着た女たち」


激情コミュニティは、この話を、2組のカップルに演じさせる。

一組は小説で描かれる夫婦の心模様を演じ、もう一組は同じセリフを道化のように、コミカルに演じます。読み方や、身体の在り方によって聞こえてくる台詞の色の違いを楽しんでいただければと思います。
(公演パンフレットより)


シリアスな雰囲気が漂うパート1の夫婦。何を得ても埋まらない男の心、そうして、それを見抜いて怒る女。妻役の役者さんが、綺麗で、面倒くさそうな女を見事に演じていて、こういう女いそう……と思わされる。


まるでコントを見ているような気分にさせるパート2の夫婦。バービー人形にしゃべらせたりしていて、昔、友近となたぎ武が「ディラン&キャサリン」というネタをやっていたのを思い出すような演出。妻役の兼桝綾がノリノリで、とっても楽しそうに演技していて、ぐいぐい引きずりこまれる。兼桝綾は、以前朗読を聞いたことがあって、その時は、さまざまな文学作品をつぎはぎした文章を読み上げていて、やっぱり感動したのだった。パート1の夫婦と同じセリフが、声と演出によって、完全に意味を裏返される。


2つの「夏服を着た女たち」は、そうした演出上のおもしろさに終始するのではなくって、ラストに向かう直前にパート・ハミルの『ニューヨーク・スケッチブック』の挿話が演じられていて、舞台上の物語に厚みが感じられた。すれ違うあの人にも、この人にも、そうしてこの若夫婦にも、彼らにしか分からない人生を背負って、今ここにいる――かもしれない。この挿話が素晴らしくって、舞台全体が心に残るものとなった。


僕はショーの小説を読んだことがなかったので、帰りに図書館で原作を借りてきて読んでみる。


この日3回目の「夏服を着た女たち」は、都会的で、オシャレで、でも、どこか物悲しい小説だった。田舎出の人生を背負った男の、どんなに幸せそうにふるまっていても埋まらない心、それを感じつつ見て見ぬふりをして幸せそうにふるまおうとする妻――この不安定な関係が続くのかは分からないけど、こうして生きるしか術がないような二人……。舞台を見たこともあってか、小説も――共感はできないけれど、素晴らしい作品。

目の前にある身体と声の力


ふだん、演劇を観る機会はないんだけど、小説を読んでいる時には出会えない、圧倒的な声と身体の力を感じた。


原作の小説しか読まなかったら、ツンとした雰囲気をまとったこの短編を、僕は主に男の視点に寄り添って、沈んだ心持ちに注目しながら読んだのだろうけど、舞台では、役者の声と身体が目の前にあることによって、そんな男に寄り添うしかない女と、そこにある面倒くさそうな状況そのものを感じさせられた。


身体性を感じてみることによって小説の読み方は変わって、自分なりの、厚みのある深いものになった気がした。


以上、オランウータン日誌がお届けしました。


夏服を着た女たち (講談社文庫)

夏服を着た女たち (講談社文庫)

ニューヨーク・スケッチブック (河出文庫)

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