オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

日常のキラキラ感をアップさせる方法(三十一文字のススメ)

小説やドラマになるような出来事がなくても、私たちの日常には楽しかったりいいなって思ったり、あるいは悲しかったりする瞬間がそれなりにはあって、そういう心動かされる経験を前にすると、その瞬間をどのようにかして残しておきたいと思う。


恋状態に陥った時なんて、ささいなことで心が動かされて、もう、残しておきたい瞬間だらけになる。そこで人はカメラを手に取ったり、絵にかいたり、文章にしたりして、恋状態が放つ輝きを残しておこうとする。


私は、恋状態のくだらなさや何気なさが放つ輝きを残しておこうとするならば、短歌は最適な芸術の一つなんじゃないかと思ってる。


回転ドアは、順番に』は、穂村弘東直子という人気歌人ふたりの、恋愛短歌のやりとりからなる歌集だ。二人の男女の出会いから別れまでを、短歌と詩のような短い文章で描き出している。序盤~中盤の幸せっぽい部分から何首か引用してみる。


雲を見て飲むあついお茶 わたしたちなんにも持たずここに来ちゃった(東)


観覧車昇るよきみはストローをくわえて僕は氷を噛んで(穂村)


水を飲むあなたの咽喉が動くのを見ていた朝が焼けついていた(東)


背に文字を描けばくすくす読み上げる チ、キ、チ、キ、マ、シ、ン、ぜんぜんちがう
(穂村)


デートの最中や二人で迎えた朝の、恋人の小さな仕草やくだらないやりとりを散文で書いて伝えようとすると、たぶん甘ったるくて読めたものじゃなくって、だから私は、これらの短歌の良さを自分の言葉で説明することが出来ずにいるんだけど、あえて感動する理由を考えてみようとすると、それは、ささいなできごとを大切にしようとする意志によるんじゃないか。


小さな仕草、くだらない会話、何気ないやりとりを、かけがえのないものにしようと三十一文字の短歌にすることによって、あるいは取るに足らないくらい小さなものかもしれないけど、私たちの日常は確かにキラキラしたものになるのだ。


みたいなことを、好きな本について話し合う機会があって話してたんだけど、私がひと通り話した後で、ふんふん聞いてた向かいのお姉さんが『回転ドアは、順番に』をパラパラめくって、


「あっ、これ、恥かしい。私、カバーかけたって、この本、電車の中で読めないよ。恋人同士だってふつうこんなこと言わないし、書かないよ」


というようなことを言って、私にも、電車で読める? と聞いてきた。


私は困ってしまって、はぁ、とか言いながらあいまいに笑うしかなくって、ふつうに電車の中でこの本を読めるし、ふだんからこういう本を読んでるんだけど、そうか、俺がふだんふつうに考えてることって、恥ずかしいことだったのか。いや、恥ずかしいと思わせるのは短歌じゃなくって、「キラキラ感」みたいな言葉を連呼しながら語る私の方か。


人間関係について考える、という点では文学も哲学も、間接的には保育につながっていると思うので、保育士として保育について語る、みたいなポジショントークには固執しないことにしました。(←苦しい)


ということで、今日は読書会に参加してきました。


好きなもののよさを伝えるのってとても難しい、と常々感じています。


ちなみに昨日はサラダ記念日でした。


「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
                               俵万智