オランウータン日誌

保育士をしています。本と落語と自転車が好きです。

子どもの何を育てたいのか―「ゆとり」の意図するもの

私たち大人の子どもへの関わり方に、子どもにどう育って欲しいと思っているのかが端的にあらわれる。

たとえば、1歳の子どもが他の子どもが遊んでいるおもちゃを横取りした時の、次の二つの対応を考えてみたい。

A:「お友だちのおもちゃを取ってはいけません!」と叱る。
B:「おもちゃ楽しそうだったね、だから欲しくなっちゃったんだね。でもお友だちがそのおもちゃ使ってるよ。お友だち、おもちゃ取られたらイヤだよ」と諭す。

一見するとAの方が明快で分かりやすい。そして実際、「子どもが他の人のおもちゃを取る」という行為だけに注目するならば、Aのように叱りつける方が抑止力があるだろう。

それに対してBの対応はまわりくどい。次の日には再びおもちゃを横取りしてしまうかもしれない。だがそれでも、おもちゃを横取りするという程度のことであれば、Bの対応の方が1歳児には適切であるように思われる。

 1歳児は「快・不快」や「したい・したくない」ということが行動原理であるような自分中心の世界に生きていて、他人にも感情があるということがまだ分からない。だから、「取ってはいけない」ということを叱りつけ教え込んで、実際次からおもちゃを横取りしなくなったとしても、「なぜ取ってはいけないのか」ということまでは思いが及ばないだろう。外見だけの「いい子」な行動をさせることは、子どもの学びの機会を奪うことにすらなりうるのだ。

私たち大人が支えなければならないのは、子どもが自分で考え、ものごとの善し悪しを適切に判断し、自分で自分の行動を決める力を将来的に持てるようにすることである。大人の持っている善悪の基準に適う行動を子どもにさせることでは決してない。

とすると、1歳の子どもへの対応は、おもちゃを横取りするかしないか、という行動に注目したものではなく、「おもちゃを取られた友だちの感情」に気づくことが目的となるのではないだろうか。「友だちの感情」を子ども自身が気づき考えたうえで、どうしたらいいのかを導くのである。そのための対応が「おもちゃ楽しそうだったね、だから欲しくなっちゃったんだね。でもお友だちがそのおもちゃ使ってるよ。お友だち、おもちゃ取られたらイヤだよ」という大人の言葉かけなのである。このようなやりとりの繰り返しの中から、お仕着せではない形で、それはゆっくりであるかもしれないが、子どもは社会性を身につけ、内面化してゆくのだ。

言うまでもなく、これは1歳児に対しての対応であって、自我がより明確にあらわれる2歳児であれば対応は別のものになるだろうし、言語能力が発達してくる3歳以降であれば大人は介入せずに見守るということも出てくる。短絡的に子どもの行為を矯正しようとするのではなく、より長いスパンで子どもの成長を捉えて、その時その時に必要な支援をしていくことが求められるのである。

私たち大人の関わり方は、子どもへ無意識的なメッセージを伝える。将来的には子どもが、誰の手助けがなくても、自分で考え自分の行動を自分で決められる力を持てるように、私たちは自覚的に子どもと関わらなくてはならないのである。



余談になるが、あえて極論するならば、子どもの「悪い」行動を叱りつけ矯正するような対応は「ゆとり」以前のもの、教え諭す対応は「ゆとり」以降のものだと言えるのではないか。

「ゆとり」的な教え諭す対応は、「イイものはイイ、ダメなものはダメ」という価値観を持った世代の眼には、理屈っぽくて、まわりくどくて、非常識なものとすら映るのだろう。「ゆとり」バッシングはこのあたりに由来するように思われる。

使い分けが、必要なのだと思う。

他人を傷つけるような言動や重大なケガにつながるような危険な行動に対しては、「ともかくダメ!」というスタンスで子どもに接することが必要だろう。だがそうでない場合は、「大人にとって都合のいい行動」をさせるのではなく、子どもが自分自身で問題に気づき解決できるような機会を保障してやることが大切なのだ。

「ゆとり」バッシングは場合によっては的を射たものであるかもしれないが、たいていの「これだからゆとりは……」という声は、「ゆとり」が何を意図しているのかが分からない戸惑いの表明であると言っていい。

年齢の上でも実力の上でも圧倒的に勝る世代からの「ゆとり」バッシングは、若者世代にとっては脅威的なものとして映るかもしれない。だが「ゆとり」バッシングに対していじけてみたり、逆に反抗してみたりといったナイーヴな反応で世代間対立を深めるのは得策ではないだろう。もちろん、だからといってむやみに迎合すればいいわけでもない。私たち若者世代は、自分たちの行動が何を意図して、どのような根拠に基づいているのかに意識的になり、自分たちの思いを伝えようとする姿勢を忘れてはならない。対話の中からお互い納得のいく着地点を見つけること、それは私たちが子どもに持てるようになって欲しい力ではなかったか。それを私たちができなくてどうするというのだろう。